正確な時期は忘れたが、大学院の修士2年の夏休み頃から、私は自分の研究について悩むとともに、将来の進路について悩み始めた。 このまま博士課程に進学して、本当に立派な研究者になれるのかという疑問が頭をもたげた。 それよりも、そもそも自分は研究が好きなのか、一生の仕事としてやっていけるのかという疑問がわ... 続きをみる
2018年9月のブログ記事
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このブログでは私の大学院時代の話をしているが、ちょっと休憩。 私が先日、出席した学会では、研究者に留学を勧めるセッションがあった。 日本学術振興会の特別研究員とか、ヒューマンフロンティアとか、その他財団から奨学金をもらったりすれば、何とか自分の腹をいためずに留学できる。 そうして進んだ海外の研究室... 続きをみる
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がんの研究を始めた私は、夢中になった。 やり方はこうである。(ちょっと難しい話になる。) マウスの細胞を培養し、そこに人のがん患者から採取したDNAをバラバラにしてふりかける。バラバラにされたDNAの中には、それぞれがん患者のいろいろな遺伝子が含まれている。(ちなみに人の遺伝子は2万2,000ほど... 続きをみる
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「週末は実験を手伝ってもらいたい。」 そう、先輩にすがるように言われた時、私の気持ちは大きく揺れ動いた。 秘密裏に進めてきた東大理Ⅲ受験をどうするか。 せっかくここまで勉強してきたのだ。自分を試してみたい。 と、先輩の要請を断る気持ちの方が強かった。 しかし、先輩のすがるような態度を見ると、私とし... 続きをみる
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さて、ひそかに東大理Ⅲ受験をもくろんでいた私は、その後も受験勉強を続けていた。 勉強するのが楽しかった。問題が面白いように解けるし、何ら義務もない。 落ちれば大学院に行けばいいだけだ。 まあ、これは私の現在の状況に似ているだろう。ただ、再就職先がまだ決まっていないという点は大いに異なるが・・・・。... 続きをみる
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院試では、一年間の勉強の成果をすべて出した。 ドイツ語は結構できた。 なんせ、そのために「ドイツ語単語トレーニングペーパー」を買い込んで、1000語を完璧に覚えたのだ。 そして問題の生物や化学の試験では、ミカエリスメンテン式の応用等、面白いようにできた。 問題の内容はほとんど忘れたが、確かアセチル... 続きをみる
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私の院浪時代の話を続ける。 私が東大理Ⅲの受験も併せてやろうと決意したのは、確か3月頃だったと思う。 まず、ものは試しにと、二次試験の模試を受けてみた。駿台か河合塾のものだった。 当時はセンター試験ではなく共通一次と呼ばれていたが、それはとても簡単なものだった。それに東大は共通一次と二次の配点割... 続きをみる
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私は、次こそは院試に受かるべく、じっくり考えた。 実は本郷にあるその生物系学科は、進学振り分けでの偏差値は極めて高かった。 全部の学科のうちでも1位か2位にランクされていた。 1年生の丸1年間を棒に振り、専門課程ではかなり生物系を勉強したと自負した私も、 それは相当レベルが高かったのだ。 そこで、... 続きをみる
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東大で専門課程に進学した私だが、少し方向性が定まってきた。 それは「不老不死の薬を作る」というものだった。 また途方のないことを・・・・と思われるかもしれない。 だが私は結構真剣だった。 両親が年をとって死んでいくのが耐えられなかった。 人間は、せっかく富や名声を築き、愛情を獲得しても、死によって... 続きをみる
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とにかく、2年生になって、授業に出よう、と思った。 1年生のときは前期・後期とも悪い成績しか取れず、進学振り分けでどこにも入れないどころか、留年してしまうピンチを迎えていた。 これから巻き返すしかない。しかしどうするか。 まずは授業に出て、少しでも分かることをノートに書き留めること。 それから、分... 続きをみる
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私は上京した。 受験まで一度も東京に来たことがなかったため、全てが新鮮だった。 だが、本当は不安の方が大きかった。 自分は今までは、生活面がだらしなくても、勉強ができるということで皆にアピールすることができた。 しかし、東大生は皆勉強ができる。私には皆に誇れる取り柄がなかった。 私は劣等感に苛まれ... 続きをみる
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今から40年前の大学入試には、センター試験やその前身の共通一次試験がない代わりに、東大だけは大学で一次試験と二次試験を設けていた。 一次試験はマーク式で、完全に足きりだったが、理科を2教科、社会を2教科受けなければならなかった。 私は社会の勉強はほとんどしておらず、一応、日本史と世界史を勉強してい... 続きをみる
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私の高校3年生はもう10月に入っていた。 どの大学や学部を受験するかについて、とりあえず、私は迷ってはいなかった。 それは東大の理科Ⅰ類だった。数学や物理、工学などを勉強するところである。 私は、自分は数学や物理の才能はあるのではないだろうかと思っていた。 中学時代、数学はほとんど何もやらずに10... 続きをみる
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私は追いつめられていた。 頭の中を占めるのは、常に、失敗して何も言えずに立ち尽くす私。 どうしよう。どうしよう。 そのことを考えるといつも頭が真っ白になるのだった。 しかし、もう体育祭の結団式が数日後に迫ってきた時に私は少し、ひらめいた。 「そうか。話すことを考えてあらかじめ練習しておけばいいんだ... 続きをみる
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私は当時、進路についてあまり真剣に考えていなかった。 それから、大学を卒業してどんな職業につきたいかも、私の頭の中にはなかった。 つまり、先のことは何も考えていなかったのである。 そして大学については、私が住んでいたのは西日本であり、東大といってもあまりピンとは来なかった。 ただ、東大は日本一頭の... 続きをみる
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ところが、そんな私が注目を浴びた。それは、勉強以外のことだった。 私は中学校時代、ある部活に入っていた。 自分ではまずまず上手で、体力さえあれば人には負けないと思っていた。 実際に、県で優勝した相手をぎりぎりまで苦しめ、また一年次下の県の優勝者には2度勝った。 ただ惜しむらくは体力がなく、長丁場に... 続きをみる
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私は、高校に入ったら中学校のように部活をやらず、勉強に専念しようとした。 家に帰ってからの勉強時間の3時間を、トレーニングペーパーと、学校の宿題に充てた。 結構集中してやった。だがそれ以外はのんびりと本を読んだりした。 だがそうすると、宿題まで手が回らず、やっていかないで先生に怒られた。 さて、私... 続きをみる
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一昨日の新聞に、司法試験の合格者が1525人で今までで最少だったという記事が掲載されていた。 以下、ちょっと数値の話になる。説明が分かりにくかったら申し訳ない。 受験者の総数は5,238人なので、合格者が1,525人ということは、合格率は30%弱。 こりゃ、合格率は高い。ちょっと勉強すれば誰でも通... 続きをみる
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考えてみると、中学3年生の、あの対人恐怖から脱出した時期、それこそ私の人生において、もっとも頭がよかった時期だったのではなかろうか。 やることが楽しくて仕方なかった。先生の話は1を聞いて10まではいないが3か4くらい理解できた。 理科の教科書を読んで、実験の裏にある原理を自分で推定して導くことがで... 続きをみる
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今回は受験勉強から離れて、ちょっと一服。 最近、大坂なおみ選手を激しく見直している。全米オープンに優勝したからではない。彼女の姿勢にだ。 登場したばかりの頃は、けだるそうな姿、途中で泣きだす姿、インタビューへの回答があまり要領を得ない姿を見て、 私としては、ああ、この娘は、あまりきちんとしていない... 続きをみる
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入学した直後の実力テストが戻ってくる前、クラスの中ではその結果がどうなるか、結構話題になった。 なんせ、試験の結果が順位づけされるのである。学校全体で400人の生徒の中で。 当時は今のように中学受験がなく、大部分の者はそのような試験は受けたことがなかった。 だから、それによって、自分という人間が初... 続きをみる
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もう少し、私の背景を語ることを続けたい。 私の入学した中学校は1学年400人くらいのまあまあ大きな学校だった。 その中学校には、もともと私が通っていた小学校以外に周辺のいくつかの中学校から生徒が入ってきていた。 私が中学校に入学してすぐに思ったのは、厳しい学校だということだった。 明治の初めにでき... 続きをみる
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それでは元に戻って、私の子ども時代のことを書く。 6年生になった。 前回、田舎なので中学受験はない、と書いたが、1つだけ例外があった。 それは県庁所在地に位置する我が県唯一の国立大学の付属中学の受験だった。 そこは高校がなく、中学校までだったが、県内の優秀な子供たちはこぞって受験した。 私も、... 続きをみる
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小学5年生頃になると、少数の子どもたちは学習塾に通うようになった。 といっても田舎のことである。中学受験があるわけではない。 でもなぜかその塾は評判で、頭の良い子も悪い子も、次第に行くようになった。 私の家は、両親ともに教員をやっていたため、そんなに裕福でないことはなかった。 だから、私も学習塾に... 続きをみる
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(前回からの続き) 漢字テストで名前を書き忘れ、零点をとった私に、先生はこう言ったのだ。 「あなたは罰として、冬休みの間、教科書に出てきた漢字を全部、10回ずつ書きなさい。」 私はげっと思った。これまで習った範囲は相当ある。当時の教科書は上下巻になっていたが、上巻全部と下巻の3分の1までやらねば... 続きをみる
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私が生まれて初めて、おっ、自分も満更ではないな、と思ったのは・・・・ 小学校3年生の時だった。 私はいつもあまり試験の点数はよくなかった。勉強しないからである。 だがある時、先生がある変わったテストをした。 そのテストを見たとき、私はちょっと驚いた。 どれもこれも、知らない内容である。 これは私が... 続きをみる
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私は、小さい頃から人に馬鹿にされることが多かった。 親に放ったらかしにされていたからだ。 両親は共働きだった。私の面倒はだれもみない。いわゆる「カギっ子」だった。 着るものもいい加減。いつも同じ服をよれよれとしたまま着ていた。 それから、人の話を聞かないという悪い性癖があった。授業中、先生の言うこ... 続きをみる