受験老人日記~高齢で医学部と司法試験に大挑戦~

還暦を迎えた男が、医学部と司法試験を同時に合格することを目指すという無謀な冒険に乗り出した

相模原事件に想う(その2)

さて、知的障碍者は社会のお荷物だから殺した方がいいという犯人の考え方はどうか。


まあ法律上は人の命は平等である。人種にもよらず、年齢にもよらず、どのような人だってそうだ。
それはなぜ、そうなっているのか。受験老人はいろいろ考えてみた。以下、ひとりよがりの部分も大いにあるが。


まず、命を区別すべき基準がない。たとえばIQが80以下だったら殺しても罰を受けないとする。すると81だといけないのか、ということになり、きちんとした基準ができない。
もし将来、地球が高度な知能をもつ宇宙人に征服されたとする。すると地球人は全員宇宙人に比べ低い知能であるため、殺されても文句は言えない。我が身も安泰ではない。目糞鼻糞を笑う、である。


そして、IQは変わりうる。昔は賢かったのに、事故や病気によって、ある時から知的障碍者になってしまう場合だってある。そんなとき、そういう人が知的障碍者になった瞬間に命の重さについて差別を受けるようにしてよいか。


典型的なものは認知症だ。私の母も認知症だ。何とか私のことを認識できるくらいで、身の回りのことはほとんどできない。ましてや自分だって、そのような存在にいつなるか分からない。若い頃は、老人はなんでこんなに鈍いのかと思っていたが、年をとってきて、それは皆がたどる道だと分かる。明日は我が身なのである。


それから、医学はどんどん発達している。知的障碍者であっても、将来的にはよい治療薬が開発され、治る可能性がある。(「治る」というのはよくない言い方だが。)そのような可能性をつぶすべきではない。


何よりも、障碍者や家族は、死を望んでいないということ。自分の命が閉ざされるのは誰だって怖い。障碍者だって同じだ。そして家族だって、時につらいと感じることがあれど、一生懸命世話をすること自体に生き甲斐を感じている人も多いだろう。私も母を施設に入れざるを得なかったが、母にはずっと生きていてもらいたいと思っている。当然だ。


それをいきなり、役に立たないから代わりに殺してあげた、と言われたらどうだろうか。法律には同意殺人というのがあり、普通の殺人に比べ罰は軽い。だが、この場合、家族や、そして特に本人の同意があったわけでも何でもないのである。それを無視して殺人を犯すのはどう考えても間違っている。


世間に障碍者のことをよく思わない気持ちがあるのは分かる。だが障碍者自体、自分の能力が劣っていることを、自分自身、歯がゆく思っていないわけがないだろう。ましてや親だってそうだろう。それでも彼らはがんばって生きているのだ。
むしろ、世の中には平気で他人に迷惑をかけて顧みない人はいっぱいいる。あおり運転をする人、マスクを高額で転売する人。そんな人たちこそ、世の中からいなくなればいい。


昔NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏は、ある障碍者施設で、何とかこの子たちに光を与えてやりたいと言ったところ、その施設の人から、「いや違います。この子たちこそ光なのです。」と言われ、恥じ入ったと述べていた。私も恥じ入った。障碍者がいることで、人々は生きる勇気がもらえ、また、優しい気持ちになれるのだと思う。