U君と神の存在⑨
(前回の続き)
受験老人は、Yさんと一緒に聖書を読み進めたが、ある時、
「人は死んだらどうなるか」という話になった。
(以下、受験老人の記憶も曖昧である。不正確なところもあり、お許しいただきたい。)
受験老人は、生命科学を専攻・研究している立場としては、
当然、死んだら全部がなくなってしまう、と答えざるを得なかった。
肉体が消滅し、脳が崩壊すると、意識もなくなり、何もなくなってしまう。
これ以外の何があるだろうか。
キリスト教ならば、たとえば死んだら天国や地獄に行く、
善い行いをしたら天国に、逆だと地獄に、という考え方だと思っていた。
受験老人はそう答えた。
ところが、Yさんは首を横に振った。そして、聖書の一節を指した。
それは、実際に死んだ人のことが書かれていた。
死後の世界・・・それは
天国とか、地獄とかではなく、実際に何もない、暗黒の(又は真っ白の)、無の世界。
意識も何もなく、その状態で、ただ、そこにとどめ置かれている、という感じ。
死後の世界はそんなところなのだと書かれてあった。(記憶なので不正確)
へえっ、キリスト教だと、人は死んだらそんな状態になるとしているのか。
何もなくなるということなら、生物学的にも、まあ正しいかもしれない。
でも・・・・
それなら、生きているうちにいくら善行を積んでも、何のトクにもならないんじゃ・・
すると、Yさんはニヤリとして、
いや、違います。正しいことをした人は、その「無」の状態から復活するのです。
復活・・・一体なんだ??
つまり、聖書には、救世主がいつの時代かに蘇り、最後の審判を下す。
その審判により、正しいことをした人は選別され、蘇り、永遠の生命を与えられる
・・・確かに、そう聖書には書かれていた。
永遠の生命とは、かつて生命(いのち)の木によって与えられていたもので、
生命の実のようなエネルギーを与えられ続けることによって命が持続する。
でも、審判に当たって、一つ注意しないといけないことがある。
それは、無の状態にある人々を見分ける際に、
他の人たちとその人の生命が混ざってしまうと見分けられなくなる。
混ざってしまうとは、どういうことかというと、
たとえば、臓器移植をしたり、輸血をしたりすると、生命が混ざってしまう。
だから、見分けられるように、そういう行為をしないよう、
「新しいブドウ酒は新しい皮袋に入れよ」という戒めをしているのだ、と。
この場合、ブドウ酒は血液、皮袋は肉体を表すと。
・・・・へえっ、と言うしか仕方なかった。
確かに、そう読めなくもない。
確かに、最後の審判のことは聖書に書かれている。いろいろな解釈があると思う。
だけど普通のキリスト教信者は、そんな物語よりも、
キリストの実践した愛の精神を重視していると思う。
しかし、エホバの証人は、聖書の一言一句を重視するゆえ、そのような解釈にたどり着いたのだろう。
そして、そのために彼らは聖書の教えを守り、必死になって、正しく生きようとしている。
将来、最後の審判で選別してもらうためにも・・・・
まあ、立派である。彼らを非難するところはどこにもない。
自分が輸血を拒否するのは、自己責任で行えばいいだろう。
ただ、まだ自我が形成されていない自分の子供に輸血が必要になった時、
親の立場として輸血を拒否するのは、ちょっと問題があるように思う。
・・・・最後の審判と永遠の生命の話を聞かされ、
その思想や彼らの生真面目な人生に対する態度に少しばかり魅力を覚えた。
だが、だが・・・・・受験老人はやはり、俗物だった。
そのような清い生活に憧れはするものの、まだまだ血気盛んな青年だった。
その理想追究の姿がうっとおしくなり、
せっかくYさんが訪ねてきても、居留守を使ったり、外出したりした。
U君を誘ってはしょっちゅう合コンを企画し、その都度爆死していた。
そのうち、故郷で紹介してもらった女性と付き合うことになり、結婚することになった。
それを機にアパートを引き払った。Yさんには何も告げず・・・・
Yさんには、本当に申し訳ないことをしたと今でも思う。
もう、宗教では不老不死の問題は解決しないと思った。少なくとも自分は。
しかし、その後何年かして、真実があるとしたら、これではないかという宗教に出会った。
しかもそれは、宗教にはある程度醒めた考えを持っていたU君によってもたらされたのだ。
(次回に続く)
(2月23日)
★簿記
簿記3級 模擬テスト 53点
→また失敗した。しかし失敗をするということは成長につながる。
★運動
・腕立て 64回
・腹筋 96回
・筋トレ
→もう限界が近いのだが・・・最終目標を見直さねばならん。
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