受験老人日記~高齢で医学部と司法試験に大挑戦~

還暦を迎えた男が、医学部と司法試験を同時に合格することを目指すという無謀な冒険に乗り出した

私はフィギュアスケートの金メダリスト♪♪

今回のグランプリシリーズでの羽生選手はまた一段と凄みを増した。


ショートでの最高点、そしてケガをして臨んだフリーでも、ぶっつけ本番でプログラムを変えたにもかかわらず、そつなくこなして圧倒的に勝利した。


よくぞ、この世の中にフィギュアスケートという種目ができ、またその申し子のような羽生選手が、宿命ともいうべき競技をまだ小さい頃に見出すことができたと、その奇跡的な出会いに賛辞を送りたい。



さて、フィギュアスケートが話題になると、いつも思い出すことがある。


今から10年以上前、私が欧州のある国の国際機関で働いていた時の話だ。


家族を連れて同地に赴任していた私は、当初、家を借りたり、子供を学校に入れたり、車を買ったり、銀行口座を開設したりと、いろいろな手続きに大わらわだった。


そんな手続きの1つに、保険への加入があった。


まず健康保険。国民皆保険の日本では、勤めていれば保険料が給料から自動的に引き落とされる。しかし当地では自分で何かの保険に加入しなければ高い医療費を払わされてしまう。


だが何とかそれは、そこの職員皆が加入している特別の保険に入ることで片が付いた。



次にやったのが自動車保険への加入。これは同国際機関に出入りしている保険業者が何社かあるようなので、そのうち1社からから話を聞くことにした。


担当してくれたのは、中年の女の人だった。


彼女は保険の説明を大雑把にしてくれた。


でも、ちょっと高いなあと思った。まあ健康保険料も当地では高かったので(家族の分を含めて7〜8万円もした)、自動車保険も高いのかなあと漠然と思った。


私がちょっとためらっている素振りを見せると、その人は私に言った。


「貴方は日本から来たのか。私は日本にかつて行ったことがある。30年ほど前のことだが。」



私はてっきり、その女の人が、日本への旅行の話をし始めるのかと思った。


30年前というと1970年代だ。その頃にかの国から日本旅行をするなど、この保険屋さんはきっと家が裕福だったにちがいないと思った。


すると、彼女はなぜか感慨深げに、遠くを見るような目をするのだ。


「日本、ああ日本。日本の人たちは皆優しかった。私はオリンピックに行ったのよ。」


へっ、オリンピック・・・・そういえば、当時、札幌オリンピックが開催されていた。日の丸飛行隊がジャンプで金銀銅を独占したのをぼんやり覚えている。


「へえ、そうですか。オリンピックを見に行かれたのですか。よかったですね。」と私が言うと、女の人は首を左右に振った。


「いや違う、私は選手としてオリンピックに出場したんだ。」



私はちょっと驚いた。そういやあ、中年になっているとはいえ、この人は、やけに筋肉がしっかりついていて体格がいい。


そうか、オーストリアはスキーなど、冬のスポーツが盛んだ。きっとそれで選ばれてオリンピックに出たんだろう。


そう思いつつ、私は何の競技か尋ねた。しかし彼女の返事を聞いて、私は自分の耳を疑った。


「フィギュアスケートだ。金メダルを取った。」



・・・・私は思い出した。1972年に開催された札幌オリンピックで女子のフィギュアが日本人に大人気を博したのを。


妖精のように可愛いらしい米国のジャネット・リン選手が可憐なジャンプと舞を見せ、日本中の人が彼女を我が恋人のように見守ったのを。


その時、ジャネット・リン選手は銅メダルだった。だが確か、金メダルを取ったのはごつごつした選手だった・・・・。


まさにその人が私の目の前にいるのだ。荒川選手や羽生選手がいきなり自分のところに保険の勧誘にやって来たことを想像してみたらよいだろう。


彼女は、一応その国のフィギュアスケート協会の役員をしているとのこと。しかし、それだけでは収入が少なく、保険の仕事もして生計を立てていると。



現在、フィギュアスケートは、ロシア、日本、アメリカ、カナダ等に優秀な選手が集中している。


欧州はと言うと、フェルナンデス選手やコストナー選手等、目ぼしい選手が何人かいるだけだ(私の知識不足かもしれないが)。


平昌オリンピックも欧州時間に合うように配慮されたスキー競技と異なり、フィギュアは先方の深夜に当たる午前中から行われていた。


そう、それほど欧州ではフィギュアは人気がないのだ。同国のような小国ではなおさら・・・・。


だから、保険の外交員で食いつないでいかねばならない。



フィギュアスケートをやるには馬鹿にならないようなお金がかかる。衣装代、レッスン代、海外遠征の旅費・・・・


でも、日本のフィギュア選手は、幸せだと思う。ものすごく注目され、グランプリシリーズも毎回放映されるようになった。


そしてたとえメダルを獲得できずに引退したとしても、マスメディアから引っ張りだこだ。


まっそれは一部の上位選手に限られはするが、それでも、保険外交員で生計を立てているフィギュアの金メダリストというのは、今の日本では想像できない。



思うに、人の価値観は絶対ではない。たとえどんなにすごい選手がいても、そもそもその競技自体が注目されていなければ関心は集まらない。


人によって価値観が違うように、人の集団である国でも価値観が違う。民族によっても違う。


フィギュアスケートに関心のない国では、日本の熱狂ぶりが分からないだろう。


そもそもフィギュアスケートであれ、カーリングであれ、そうした競技の存在自体が絶対的でなく、たまたま何らかの形で生まれ、そしてたまたまその才能を持つ選手が活躍できたということだろうから。


(まっ羽生選手の場合はあの集中力と才能があれば何をやっても成功しそうな気がするが。)



その女の人は、私が保険に入ろうかどうかなおも迷っていると、私に顔を近づけてこう言った。


「人間は決めるときは思い切りが肝心だよ。ガッツできめるんだ。」


金メダリストの迫力に負け、私はその保険加入を余儀なくされたのだった。